ブログ野史 S01E01
今回で三度目のドメインと名前の変更になる。内容はほとんど減っていないし、書くものに質的な飛躍があるわけでもなく、やはり再生とは言えない。前回つけた名前「空山新語」は、たしか2012年の秋に梅里雪山から帰ってきたばかりで、雨の滴る雪山の麓の古びた静かな雰囲気に浸りながら思い出した詩句「空山新雨后」に由来する。それに加えて、何か違うものを書きたいという「標新立異」の気持ちもあった。当時、孫燕姿の曲を聴いていたのか、それともたまたま『世説新語』という本を思い出したのかは忘れたが、とにかくそんな名前になった。
もともと自分のブログのスローガンは「生活を記録し、自分を納得させる」だった。後に、王小波が書いたある一文がもっとしっくりくることに気づいた。彼は『沈黙の大多数』の自序でこう書いている。
「私は小説を書くことを本業としているが、時々エッセイも書き、世事に対する自分の態度を示している。普通の人間として、私の考えは他人に重視される価値はないかもしれないが、自分にとってはとても重要だ。これは私に好き嫌いや愛憎があることを示している。もしこれらがなければ、人間として生きる味わいもない。」
以前の私は今よりずっと落ち着きがなかった(あるいは退屈だったのかもしれない)。何かあれば何でもかんでも吐き出していたが、後になってそれがとてもつまらないことだと気づいた。それはあたかも、読書を始めたばかりの人のようだ。最初は大きな野心を抱いているが、読めば読むほど自分の貧しさと小ささを感じ、ついには謙虚になる。言い換えれば、私を含め多くの人がそうだ。何かを始めたばかりの頃は、自分の思考は広く、アイデアも豊富で、目にするものすべてに批評を加えたくなる。しかし経験と見識が増えるにつれ、自分よりはるかに優れた人が大勢いることを理解し、以前の傲慢さはただの愚か者の自己満足に過ぎなかったと気づく。このことに気づいてから、私の生産性はどんどん下がったが、心配はしていない。面白い人間になりたいなら、もうそんなことはできないからだ。
誠実でない謙虚さは、別の形での目立ちたがり屋だ。上の文章は、あなたには誠実に思えないかもしれない。ならば、さらに告白しよう。私は王小波が好きで、彼の本を六冊買ったが、一冊も読み終えていない。しかし名篇は何度も読み返した。ふさわしい時が来れば、いつもいくつかの言葉を覚えている。今の自分の思考状態にぴったりなのは、『黄金時代』の一節だ。
「あの日、私は二十一歳だった。人生の黄金時代にいた。たくさんの奢望があった。愛したい、食べたい、そして一瞬で空の半分が明るく半分が暗い雲になりたかった。後に私は知った。人生とはゆっくりと槌で打たれる過程であり、人は日に日に老い、奢望も日に日に消えていき、最後には槌で打たれた牛のようになる。しかし二十一歳の誕生日を迎えた時、私はそのことを予見していなかった。自分は永遠に元気でいられ、何も自分を打ちのめせないと思っていた。」
私にもたくさんの奢望がある。人生が槌で打たれる過程であることは知っている。しかしその過程で、少しでも楽しみを保ちたいと思う。
(最終更新:2020年03月20日)