『仏陀一号線』、このやつは俺のツボだ

さっき時間をかけて李海鹏の『仏陀一号線』を読み終えた。この本は買ってからしばらく経つけど、最近は試験という面倒なことに追われて読む時間がなかった。今日やっと全部の試験が終わったので、買い溜めた本を棚から取り出して机の上に積み、一冊ずつ片付けていくことにした。まず手に取ったのが、まだ読み終えていなかった『仏陀一号線』だ。この本を買ったのは、以前豆瓣でたくさんの高評価を見かけたから。俺はいつも豆瓣を信じている。そこでネットでTXT形式のファイルを探してスマホに入れ、夜更かしして眠れない時に読んでみた。最初の数編を読んだだけで、著者のユーモアと鋭さにやられた。TXTで読み続けるのは李さんに申し訳ないと思い、すぐに当当で注文した。そんな経緯だ。本が届いて、帯を外すと、なんと糸綴じの本だった。本当の表紙は濃い青色で、背表紙は加工されておらず、古書のようだ。李海鹏がどうしてこんな珍しい装丁を承諾したのか分からない。もしかして、この本が必ずや古典になると予言しているのか?

さて、タイトルが「このやつは俺のツボだ」だから、装丁が変だとか批判めいたことを言ったのは全部ただの前置きだ。俺はこの本を褒めちぎるためにここにいる。中国人が文章を書く時の「まず抑えてから揚げる」というパターンにも合っている。この本を『囲城』に例えてもいいだろうか? 俺には読書の習慣があって、笑わせてくれて、ちょっと考えさせてくれる本は、何でも『囲城』に引き寄せてしまう。もちろん、この本を『囲城』と比べるのは到底及ばないが、社会に対峙するという点では、なかなかの良書だと言える。本書は、新聞記者でコラムニストの李海鹏が『第一財経週刊』『南方週末』『智庫GQ』などの媒体に寄稿した文章をまとめたものだ。『仏陀一号線』はその中の一篇に過ぎない。俺から見れば、その文章自体はごく普通の内容だが、タイトルがなかなかしっくりくる。それを書名に使うことで、人々の好奇心をくすぐり、手に取って良い文章を見つけて購入する。書店、李海鹏、読者の三者が皆ハッピーになるわけだ。李海鹏の文章が鋭いと言っても、それは「你妈逼」「去你大爷的」といった罵り言葉を挿入しているからではない。彼の真骨頂は、文筆家としての独立した思考を持ち、社会現象に対して深く反省し批判できるところにある。『人民日報』の書き手のようにただひたすら賛美するのとは違う。もちろん、南方報系に文章を掲載できる人間が、そんな専属ライターであるはずもない。これこそが、俺が北京から遠く離れた南方系を好きな理由でもある。李海鹏の文章の中で、特に心に響いた一文がある。以前の記事でも引用したが、「この世で最も恐ろしいことは、常識が欠如した環境で、常識のない人々が自分の能力に自信満々で、自分の価値観を疑わず、自分の道徳的熱情に深く誇りを感じることだ」というものだ。俺は自分の心境をうまく言い表せる言葉をずっと探していた。まるで、どうしても伝えられない愛のように、言いたくても言い方が分からない。彼のこの言葉は、俺の考えをまさに言い当てている。また、彼はこうも言っている。「何年も前、あるBBSで遊んでいた時、何人かと仲良くなれなかった。全部彼らのせいとは言えないが、俺もまた、じっとしていられない猫のようなもので、バカを見つけると指摘したくなってしまう。そんなことはただの無駄で、しかも終わりがない。バカというやつは、いつだって連鎖球菌のように無限に湧いて出てくるものだ。」これを読んで俺は笑った。俺のネット体験も李海鹏と少し似ているが、こんなに痛快な比喩は初めて聞いた。まあ、先入観ってやつだ。もし誰かが「この比喩はどこかで見た」と言っても、俺は認めない。こんな逸話がこの本には溢れている。抜粋して微博に投稿するのも悪くない。ペンで線を引きたい気持ちはあるが、俺は本を愛しつつも少し面倒くさがり屋なので、そんなことはしなかった。

こんな言葉を見たことがある。「今、どんな本が一番売れるか?」答えは「憤青(アングラ・ヤング)が書いた本」。もし五毛(中国のネット世論工作員)の視点で見れば、この本はまさに憤青が書いた本だ。なぜなら李海鹏は、韓寒が批判したような「もうたくさんの人が賛美しているんだから、一人くらい俺がいなくても構わない」という実践をしていないからだ。俺は五毛ではない。だから、この本は決して憤青の書ではないと思う。ただ、普通の人間が持つべき思考を綴ったものに過ぎない。